令和6年5月15日東京高等裁判所第9民事部/令和5年(ネ)4755号
Man on a dimly lit city street at night, looking upward, holding a sheet of paper or document in his hand.

🔑 ある土曜日の午後、鍵が回らなかった

火曜日、水曜日、金曜日は保育園へ迎えに行く。
夕食を作り、寝かしつけるまで一緒にいる。土曜日は一日中、息子と過ごす。
それが1年半、続いていた。

別居中でも、田中さん(仮名・40歳)にとって、このマンションは息子がいる場所だった。
自分で5000万円近い住宅ローンを組んで買った家でもある。ローンも管理費も、今も払い続けている。

その土曜日も、いつものように玄関前に立った。鍵を取り出し、差し込む。
——回らない。
もう一度。
回らない。鍵穴を覗いて、気づいた。
交換されている。
妻が、無断で、鍵を替えた。

連絡もなかった。話し合いもなかった。ある日突然、自分が買ったマンションに入れなくなった。
これは、法的に許されることなのか。

📌 本記事の冒頭ストーリーは、実際の判例を参考に再構成したフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

⚖️ 東京高裁が出した答え——令和6年5月15日判決

この問いに、東京高等裁判所が正面から向き合いました。
令和6年5月15日、東京高裁第9民事部は原判決を変更し、夫の請求を認容しました。
妻は夫に対し、建物を引き渡し、従前の共同占有の状態へ復帰させなければならない。
要するに、夫が従前どおりマンションに出入りできる状態へ戻せ、という判決です。

注目すべきは、一審の東京地裁は夫の請求を全面棄却していた点です。高裁はこれを逆転させました。

この判決が依拠したのは「占有回収の訴え」(民法200条1項)という制度です。

📖 「占有回収の訴え」とは何か

民法200条1項は、こう定めています。

「占有者がその占有を奪われたときは、占有回収の訴えにより、その物の返還及び損害の賠償を請求することができる。」

平たく言えば、「事実として使っていた物を奪われたら、裁判所に頼んで取り返せる」という制度です。

重要なのは、「所有権がなくても使える」という点です。借家人でも、事実として占有していた人であれば誰でも行使できます。
そして逆に、所有権があっても、裁判所の手続きを経ずに自力で占有を実現することは原則として許されません——「自力救済の禁止」という法の大原則があるからです。

鍵の無断交換は、典型的な「占有侵奪」と評価される可能性があります。
その背景には、権利の実現を実力で行うことを原則として許さない、この自力救済禁止の考え方があります。

🏠 本件の核心——「別居=占有放棄」か

妻側の主張は、「夫は別居した時点で、この建物の占有を放棄した。だから鍵を替えても占有侵奪にはならない。」

一審の東京地裁はこれを認め、夫の請求を全面棄却しました。
「離婚を目的として自発的に別居したのだから、占有を放棄したと言わざるを得ない」という判断です。

しかし東京高裁は、これを覆します。

占有の意思の放棄は、占有者の内心において自己のためにする意思がなくなるだけでは足りない。自己のために占有する意思を持たないことを、積極的に表示することが必要だ。

本件の夫は、別居後も次のことを続けていました。

  • 住宅ローンと管理費の支払いを継続
  • 鍵を保有し、週3回以上マンションに出入り
  • 冷蔵庫、テレビ、ベッド等の家電・家具を残置
  • 住民票も鍵交換後まで当該マンションに置いたまま

そして高裁が特に重視したのは、妻のLINEメッセージです。

夫が訪れなかった日に妻は「今日はあなたの日でしょ」「19時には戻ってくる約束でしょ」となじるようなメッセージを送っていた。妻自身が、夫の訪問を当然の前提として扱っていた——この事実が決定打になりました。

高裁の判断は「夫は別居後も本件建物を占有していた。妻による鍵の無断交換は、占有の侵奪に当たる。」というものでした。

👨‍👦 もう一つの論点——父子交流を妨げたことも不法行為

本件には、もう一つ重要な争点がありました。
鍵を替えられたことで、夫は息子と会えなくなりました。令和4年10月まで約9か月間、父子の交流が断絶しました。

高裁はこれについても、妻の行為は不法行為に該当すると判断しました。

1年半にわたって平穏に続いていた父子交流が、話し合いも警告もなく突如断ち切られた。子の連れ去りを懸念していたわけでもない(直前にスキーに一緒に行かせていた)。それを正当化する事情は何もない——そう裁判所は認定しました。

ただし、認められた慰謝料は20万円(弁護士費用2万円含め計22万円)にとどまりました。

これには理由があります。

「不法行為が認められる」と「損害が認められる」は、別の問題です。

精神的損害300万円を請求するなら、それに見合った苦痛の内容と証拠が必要です。
また、占有侵奪による経済的損失(月15万円相当を請求)については、「近くのマンションの賃料相当額」という主張だけでは具体的な損害の立証として不十分とされ、認められませんでした。

立証の準備なくして、賠償は得られません。

📋 この判決から離婚・別居に関わる人が知るべきこと

別居中の配偶者へ

別居していても、以下の条件を満たしていれば、元の家への占有権は残り得ます。

  • 鍵を保有し、継続的に建物に出入りしている
  • 家電・家具等の残置物がある
  • ローン・管理費等を支払い続けている
  • 相手方が訪問を当然のこととして扱っていた

逆に、完全に荷物を引き払い、鍵を返却し、占有の意思を明確に放棄した場合は、この訴えは使えません。

また提訴には期間制限があります。占有を侵奪されたときから1年以内に提起しなければなりません(民法201条3項)。気づいた時には期限を過ぎていた、ということが起きやすい分野です。

配偶者の鍵を替えようとしている側へ

「出ていったのだから、もう関係ない」は法的には通用しない可能性があります。

相手が上記の条件を満たしている限り、無断で鍵を替えることは占有侵奪として法的責任を問われ得ます。子どもを会わせなければ、それもまた不法行為になり得ます。

感情的な実力行使の前に、必ず法的手続きの検討を。

🐯 弁護士佐藤嘉寅(とら先生)の視点

この判決が示したのは、「別居」と「占有放棄」は全く別の概念だということです。

家を出た。それは事実です。しかし出たことイコール「この家はもういらない」という意思の表示にはならない——特に、5000万円近いローンを払い続け、週3回子どもに会いに来て、大型家電を置いたままにしていれば、なおさらです。

実際に、別居後、配偶者に鍵を替えられて家に入れなくなったという事案の相談を受けることがあります。
占有回収の訴えは、あまり知られていない制度です。
しかし、別居中の一方的な実力行使に対抗できる有力な手段であり、提訴から1年以内という厳格な期間制限があります。

気づいた時にはもう遅い、ということが起きやすい分野です。

「鍵を替えられた」「家に入れなくなった」——そう感じたその日に、弁護士に相談してください。

時間は、あなたの味方ではありません。

文書作成者

佐藤 嘉寅

弁護士法人みなとパートナーズ代表

プロフィール

平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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