令和7年3月25日名古屋高等裁判所民事第4部/令和6年(ネ)689号 地位確認等請求控訴事件

📮 静かに終わったはずの一日と、届いた一通の通知書
「部長、体調不良で少しお休みをいただきます」
大手郵便会社の郵便部で課長を務めていた坂本さん(仮名)は、逮捕された翌日、そう伝えて職場に復帰しました。
前日の朝、通勤電車の中でのことでした。
坂本さんは、自分の鞄に仕込んだ小型カメラで、ある女性の姿を撮影しようとしたところを現行犯で取り押さえられ、条例違反で逮捕されたのです。
留置されたのは、たった一晩。翌日には釈放され、何事もなかったかのように仕事に戻りました。
被害者とも示談が成立し、被害届も取り下げられました。数ヶ月後、検察は不起訴処分を下しました。事件が報道されることもありませんでした。
(不起訴にもなった。ニュースにもならなかった。会社への影響も、きっと最小限で済むはずだ……)
坂本さんはそう自分に言い聞かせていました。しかし実際には、妻を通じてすでに会社には事情が伝わっていたのです。
数ヶ月後——会社から渡されたのは、懲戒解雇通知書でした。
「納得できない。勤務時間外の、しかも会社とは無関係の話だ。刑事罰も受けていない。なぜ、クビになるんだ」
坂本さんは、地位確認と未払い賃金の支払いを求めて提訴しました。
📌 本記事の冒頭ストーリーは、実際の判例を参考に再構成したフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
⚖️ 地裁は「懲戒解雇は重すぎる」と判断した
一審の名古屋地裁は、坂本さんの主張に理解を示しました。判断の軸は、次の3点です。
- 不起訴処分になっていること(刑事事件として有罪ではない)
- 事件が一切報道されなかったこと(会社の社会的評価を毀損した事実がない)
- 坂本さん自身の欠勤はわずか2日にとどまり、業務への具体的な支障が見えないこと
地裁は、会社の懲戒基準(懲戒規程)が「刑事事件で有罪になった者」と「それ以外の非違行為をした者」とで処分の重さに差を設けていた点にも着目しました。
坂本さんは後者に分類される以上、「基本的には減給〜注意、重大なものでも懲戒解雇〜停職」という、より軽い枠組みで判断されるべきだ——というロジックです。
名古屋地判令和6年8月8日
「本件懲戒解雇時点において、本件行為及び原告の逮捕によって、被告の業務等に悪影響を及ぼしたと評価することができる具体的な事実関係があるとはいえない」
地裁は、懲戒解雇は「重すぎる処分」であり、懲戒権の濫用にあたるとして、坂本さんの地位確認請求を認めました。
⚖️高裁が地裁と最も異なる評価をした点
ところが、控訴審の名古屋高裁は、地裁の判断を全面的にひっくり返しました。
高裁も、盗撮行為の悪質性(繰り返し行われていたとみられること)、郵便事業という公共性・公益性の高さ、盗撮への社会的非難が近年急速に高まっていること(実際、坂本さんの行為の翌日には、盗撮を厳罰化する新法が施行されています)など、複数の事情を積み重ねて判断しています。その中でも、地裁と最も異なる評価をした点が、「会社が事前に、盗撮行為への処分方針を明確に周知し、一貫して運用していたか」でした。
会社は、令和2年4月以降、飲酒運転や盗撮、児童買春といった「破廉恥行為」について、「有罪判決の有無、報道の有無を問わず、原則として懲戒解雇とする」という方針を定め、研修やミーティングで繰り返し社員に周知していました。
坂本さん自身、課長としてこの方針を部下に指導する立場にあったことも認定されています。
名古屋高判令和7年3月25日
「一審被告においては、上記の方針に従い、本件行為と同種の盗撮行為をした職員に対しては、有罪判決の有無、報道の有無にかかわらず懲戒解雇処分を行っていることが認められる」
つまり高裁は、「今回だけ厳しく処分した」のではなく、「会社があらかじめ決め、周知していたルールどおりに、一貫して処分してきた」という点を重視したのです。
さらに、高裁のロジックの核心はここにあります。
地裁が「実際に会社の信用が傷ついたか」という結果を見たのに対し、高裁は「会社の信用を傷つけるおそれが客観的にあるか」というおそれ・可能性の視点で判断しました。だからこそ、こう言い切ることができたのです。
名古屋高判令和7年3月25日
「報道がされるか否かは一審被告において制御することができるものではなく、一旦報道等がされれば即時に広く世間に知れ渡る可能性があることからすると、偶々報道されていない状況であったからといって、本件行為による一審被告への信用毀損が生じないといえるものではない」
「たまたま報道されなかっただけ」であって、報道されるかどうかは運の問題にすぎない——結果ではなく、リスクの構造そのものを見る。ここが、地裁と高裁の発想の違いでした。
現実:「私生活だから関係ない」は、業種と周知次第で通用しない
この判決が突きつける実務の教訓は、次の一点に集約されます。
私生活上の非行を理由に懲戒解雇できるかどうかは、「犯罪の重さ」だけでなく「会社がどれだけ事前にルールを明確化し、一貫して周知・運用していたか」に大きく左右される。
一方で、この判決は「私生活上の非行なら何でも懲戒解雇できる」という話でもありません。
会社の事前周知は、高裁が重視した複数の事情のうちの一つであり、公益性の高い事業であること、行為自体の悪質性、社会的非難の高まりといった要素も同時に積み重なって、この結論に至っています。
少なくとも、これらの事情のいずれかが欠けていれば、結論に影響した可能性はあります。
それほどまでに、この判決は複数の事情の総合評価の産物なのです。
🐯 弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点
「知らなかった」を許さない会社が、最終的に有利になる
この事件、地裁と高裁で結論が真逆になった理由を一言でまとめるなら、こうなります。
地裁は「実際に会社へ具体的な悪影響が生じたか」を重視した。高裁は「会社が信用毀損のリスクにどう備えていたか」を重視した。
経営者・人事担当者の方に伝えたいのは、この判決が示すのは「盗撮は厳罰化すべきだ」という個別論ではなく、「懲戒処分を有効にしたいなら、行為が起きる前にルールを明確にし、一貫して周知・運用しておけ」という、もっと一般的な教訓だということです。
ただし、これは「周知さえしておけば何でも懲戒解雇できる」という単純な話ではありません。
高裁が有効と判断した背景には、事業の公益性の高さや行為の悪質性など、複数の事情が積み重なっていたことを忘れてはなりません。「うちの会社は、こういう行為にはこう対応すると、あらかじめ言ってあったか」——これは懲戒処分の有効性を左右する重要な一要素ではありますが、万能の免罪符ではないのです。
労働者側にとっての教訓も、同じくらい重い。
「不起訴になったから」「報道されなかったから」「私生活の話だから」——これらはいずれも、懲戒解雇を免れる決定打にはなりません。
会社が明確なルールを持ち、それを一貫して運用していた場合、「バレなければセーフ」という発想は通用しないのです。
会社の信用は、報道されて初めて傷つくものではありません。「そういう社員がいた」という事実そのものが、すでに信用の一部を静かに削っているのです。
文書作成者
佐藤 嘉寅
弁護士法人みなとパートナーズ代表
プロフィール
平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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