📘裁判所は「もう終わっていた」と認めたか
──婚姻破綻の時点をめぐる不貞慰謝料請求のゆくえ

✨ 「何度か話すうちに、彼は言った──」
昭和62年の春、風のまだ冷たい夜だった。
私は、その日もスナックのカウンターに立っていた。
男がはじめて店に現れたのは、その頃だった。
スーツに身を包んだ静かな人──
とくに印象に残るわけではなかったけれど、どこか物腰の柔らかい人だった。
二度、三度と顔を出すうちに、少しずつ会話が増えていった。
お酒の話、仕事の話、子どもの話──
笑うこともあれば、ふっと黙り込む夜もあった。
ある夜、ふと彼が言った。
「……実は、妻のことがちょっとね。もうずいぶん会話もなくて……離婚する話も出てるんだ」
その時の声は、少し疲れていた。
無理に強がるでもなく、恨みがましいわけでもなく。
ただ、静かに、ぽつりとこぼれた本音のように思えた。
彼が、ひとりで暮らす部屋を用意していることも、
家を出るつもりでいることも、後になって少しずつ話してくれた。
私は、その言葉を信じた。嘘をついているようには思えなかった。
そして、彼が実際に家を出て暮らし始めたことを知ったとき──
私の心には、ようやく抑えていた感情が、そっと芽を出し始めていた。
はじめに
不貞行為に基づく慰謝料請求事件では、不貞に及んだ配偶者本人のみならず、その相手方にまで損害賠償責任が問われることがあります。ただし、その責任が成立するか否かは、
- 当該時点で夫婦の婚姻関係がすでに破綻していたか、
- 破綻していたと信じたことに相手方の過失があったかどうか、
という二つの視点から判断されることになります。
今回は、このテーマについて深く掘り下げた昭和・平成期の一連の判決──
第一審から控訴審、そして最高裁まで争われた平成3年 【浦和地裁川越支部事件】を取り上げ、すでに本ブログでご紹介した令和7年の【横浜地裁川崎支部事件】とも比較しながら、「破綻」の認定や破綻の認識の「過失」について、司法の判断がどのように導かれたのかを読み解いていきます。
📄 事案の概要
事案の概要は以下のとおりです。
- 原告Xと夫Aは昭和42年に婚姻し、2人の子をもうけました。
- 昭和62年頃、夫Aと被告Yとの間に肉体関係が生じ、同年10月頃からは同棲を開始。
- 平成元年2月、被告Yが出産し、夫Aはその子を認知しました。
- 原告Xは、被告Yに対して「不法行為による精神的苦痛」を理由に、1000万円の慰謝料を請求しました(平成1年(ワ)413号→平成3年(ネ)1886号→平成5年(オ)281号)。
被告Yは、「夫婦関係はすでに破綻していた」とする夫Aの説明を信じて交際を開始した旨を主張し、当時の別居状態や家庭内暴力、長年の会話断絶といった背景を挙げています。
⚖ 各審級の判断
【第一審:浦和地裁川越支部(平成1年(ワ)413号)】
争点は、主に以下の2点でした。
- Yの行為は不法行為にあたるのか
- Yが不法行為責任を負うとして、その損害額はどの程度か
特に重要なのは、「Yの行為が不法行為にあたるか」、すなわち不貞行為の時点でAとXの婚姻関係が破綻していたか否かという点です。
裁判所は、原告Xの請求を棄却しました。
その判断においては、たとえば以下のような事実が認定されています。
- XがAに包丁を突きつけるような場面があったこと
- Aが自宅に抵当権を設定した際、Xが強く非難し、財産分与を強く求めたこと
- 調停申し立てにもXが出席せず、Aが心理的に疎ましさを感じていたこと
これらの事情をふまえ、裁判所は「AとYが肉体関係を持ったのは、AがXとの別居を決意し、実際に別居した後であり、その時点では婚姻関係が修復不能なほど破綻していた」と認定しました。
【控訴審:東京高裁(平成3年(ネ)1886号)】
東京高等裁判所も、第一審と同様に、AとXの婚姻関係が破綻していたことを認定し、控訴を棄却しました。
主な事実認定は以下の通りです:
- 夫婦関係の悪化は昭和55年頃から始まり、性格や金銭感覚の相違が背景にありました。
- 自宅に抵当権を設定しようとしたAに対し、Xが激しく対立。権利証の隠匿や財産分与の要求もあった。
- Aは、Xの言動に恐怖を感じる場面がたびたびあり、昭和61年には離婚調停を申し立てたが、Xが出席しなかったため取り下げ。
- 昭和62年5月、Aは病気入院を経て別居を開始し、マンションへ転居。
Yは、Aと出会った際に「離婚することになっている」と聞かされ、その後、Aが実際に一人暮らしをしている様子を信じて交際を深めていったと述べています。
これらの点から、東京高裁は「婚姻関係はすでに形骸化していた」と判断しました。
【上告審:最高裁(平成5年(オ)281号)】
最高裁判所は、婚姻関係が破綻していたかどうかが不貞慰謝料請求における核心であると明示し、控訴審の判断を是認。妻Xの上告を棄却しました。
「甲の配偶者乙と第三者丙が肉体関係を持った場合において、甲と乙との婚姻関係がその当時既に破綻していたときは、特段の事情のない限り、丙は、甲に対して不法行為責任を負わないものと解するのが相当である。けだし、丙が乙と肉体関係を持つことが甲に対する不法行為となるのは、それが甲の婚姻共同生活の平和の維持という権利又は法的保護に値する利益を侵害する行為ということができるからであって、甲と乙との婚姻関係が既に破綻していた場合には、原則として、甲にこのような権利又は法的保護に値する利益があるとはいえないからである。」(最高三小判平成8年3月26日最高裁判所民事判例集50巻4号993頁)
つまり、夫婦の間に法的保護に値する利益がすでに存在しない場合、第三者がその利益を侵害したとはいえないというのが最高裁の見解です。
📝 注目すべきポイント
🔹破綻の事実と「時点」の認定が分岐点に
本件において、AとXが別居に至るまでの家庭内の険悪な状況、暴力や口論、別居前のマンション購入・転居といった客観的な事実が、婚姻関係の「破綻」を基礎づけるものとして重視されました。
つまり、AとYが関係を持った時点において、同居も家計の共有も解消されていたという点が重要だったのです。
🔹「信じた」ではなく「破綻していたか」
Yが「離婚すると聞いていた」「すでに一人暮らしだった」と信じていたことそれ自体が、不法行為の責任を免れる理由にはなりません。
裁判所が見ているのは、主観的な認識ではなく、当時の婚姻関係が客観的に破綻していたかどうかという点に尽きます。
🆚 令和7年 横浜地裁川崎支部判決との比較
◾ 同居の実態が残っていれば破綻ではない
- 本件と比較するにふさわしいのが、令和7年の横浜地裁川崎支部事件(令和5年(ワ)第453号)です。
- 被告女性は「家庭内別居状態にあった」「夫から破綻の説明を受けていた」と主張しましたが──
- 裁判所は、買い物や夕食の共有、家のリフォームといった日常行動に着目し、「破綻していなかった」と認定。
- 結果として、被告に220万円の損害賠償が命じられました。
📌 弁護士としての視点
この二つの事件を通して改めて感じるのは、「破綻しているかどうか」という事実認定こそが、不貞慰謝料請求の可否を分ける最重要のポイントであるということです。
- 破綻していれば、たとえ肉体関係があっても不法行為にはなりません。
- 破綻していなければ、「信じていた」と主張しても責任を免れることはできません。
誰かが「もう終わっている」と言ったとしても、それは法的な破綻とはまったく別のものです。
裁かれるのは、“言葉”ではなく、“生活の実態”。
そして、その実態を裏づける「証拠」の積み重ねなのです。
不貞慰謝料請求事件においては、ともすれば感情的な対立や印象に引きずられがちですが、裁判所が見ているのは常に「過去の事実」──
弁護士としても、その視点に立って証拠収集と主張の組み立てをしていく必要があります。
文書作成者
佐藤 嘉寅
弁護士法人みなとパートナーズ代表
プロフィール
平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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