令和7年9月1日 東京地方裁判所/令和6年(ワ)24399号 損害賠償請求事件

🎧電波の向こうで起きた“沈黙”の瞬間
午後1時1分。
赤いランプが点いた瞬間、私はいつもの位置――スタジオ副調整室の送出卓に座り、放送を見守っていた。
次々とニュースは読み上げられ、8項目目、靖国神社のニュース。原稿に沿って読む声が、ふっと“別の言葉”を混ぜた。削ったはずの箇所の周辺で、原稿にない内容が滑り込む。私は一瞬、「聞き間違いか?」と脳が逃げるのを感じた。けれど次の瞬間、確信に変わる。――これは、原稿じゃない。
その直後だった。
「警視庁は器物損壊事件として捜査しています」――原稿の一行に戻った、と思った矢先、声はまた逸れた。午後1時12分35秒から、22秒。たった22秒。尖閣諸島の帰属や「慰安婦」など、原稿にはない発言が、中国語と英語で流れ出す。
私は気づいていた。なのに、手が動かなかった。
フェーダーを下げて、音声を切らなければ。そう頭をよぎったのは事実だ。だが、放送中にそれをやったことがない。
指が固まる。呼吸が浅くなる。緊急ボタン?――その存在が、なぜか思い浮かばない。私は、ただ見ているだけになっていた。
放送は進み、別のスタッフが次の項目を読んで、午後1時15分に中国語ニュースは終わった。終わってしまった、という感覚だけが残った。
22秒。
たった22秒の“空白”が、こちらの“とっさ”を奪い、放送を、組織の信用を、そして私自身の判断を、容赦なく露出させていた。
※本記事の冒頭ストーリーは、NHKの2024年9月10日付け調査報告書をもとにしたフィクションです。実在の人物・団体を直接描写するものではなく、当事者の心情に想像を交えて構成しています。
📚 その22秒は「不祥事」か、「不法行為」か──裁判所が示した法的評価
今回のテーマは、「外部スタッフの不祥事と損害賠償」です。
NHKのラジオ国際放送で発生した不規則発言事件について、東京地裁が下した判決(令和7年9月1日)と、NHKが公表した調査報告書をもとに解説します。
🏛️ 事件の概要
NHKのラジオ生放送中、ニュースの翻訳・アナウンスを委託されていた外部スタッフ(被告・40代中国籍)が、原稿にはない「尖閣諸島は中国の領土」「南京大虐殺を忘れるな」「慰安婦を忘れるな。」といった個人的な政治的主張を放送しました。 NHK側(原告)は、これにより信用を毀損されたとして、損害賠償を求めて提訴しました。
💬 裁判のポイント:「公示送達」でも「事実認定」はされる
この裁判、被告である元外部スタッフは行方をくらませており、訴状を通常の方法では、送達できませんでした。
そのため、原告は、公示送達(こうじそうたつ)の申立てにより、送達手続きを行いました。
公示送達は、相手方の住所・居所が不明で書類を送達できない場合、裁判所の掲示板に一定期間掲示することで、法律上、書類が相手に到達したとみなす制度を言います。
通常、被告が、答弁書を提出せず、裁判を欠席すれば、「原告の言い分を認めた」とみなされます(擬制自白、民事訴訟法159条3項)。
しかし、公示送達の場合は例外で、裁判所は証拠に基づいてきちんと事実認定を行わなければなりません。
つまり、今回の判決は「相手がいないから言い値が通った」のではなく、「裁判所が証拠を見て、確かにこれだけの損害があったと認めた」ものなのです。
⚖️ 裁判所の判断と「損害」の中身(東京地裁 令和7年9月1日判決)
裁判所は、NHK側の請求を認め、合計1100万円の支払いを命じました。 NHKの調査報告書 によれば、この損害額の背後には、凄まじい実害がありました。
- 信用毀損:NHK国際番組基準(国の方針を正しく伝える義務)への抵触 。
- 業務妨害:4000件を超えるクレーム対応に追われた労力 。
- 経営責任:専務理事が辞任し、会長・副会長らが報酬50%を自主返納する事態に発展 。
裁判所は、これらの事情を総合し、個人の暴走によって企業が被った有形無形の損害は甚大であると判断しました。
🐯弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点
この事件、単なる「おかしなスタッフが暴れた」だけの話ではありません。 NHKの調査報告書を読むと、「防げるはずの予兆」を見逃した組織のリスク管理の甘さが浮き彫りになります。
放送の1時間半前、被告は原稿の内容(靖国神社の落書きに関する表現)について激高し、スタッフが止めに入るほどのトラブルを起こしていました。
上司は「読み手を替えるか?」と打診しましたが、現場のデスクは「本人は落ち着いたし、放送時間が迫っているから」と続投させてしまったのです 。
リスク管理において、「違和感」を「納期(放送時間)」のために飲み込むことが、いかに致命的か。 あの時、勇気を持って交代させていれば、事件は起きませんでした。
そして、現場には放送を遮断する「緊急ボタン」がありましたが、誰も押せませんでした。
ディレクターは「頭をよぎったが、とっさに動けなかった」と証言しています 。 『まさか20年来のベテランスタッフが 』という心理的バイアス(正常性バイアス)が、指を凍りつかせたのです。
設備があっても、「内部の人間が裏切る」という最悪の想定と訓練がなければ、人は動けません。
「1100万円」という賠償額は、その油断に対するあまりにも高い授業料でした。 これは放送局だけの問題ではなく、すべての組織にとっての教訓です。
文書作成者
佐藤 嘉寅
弁護士法人みなとパートナーズ代表
プロフィール
平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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