令和7年10月30日最高裁判所第一小法廷/令和6年(受)120号

🌙 「相続放棄」が生んだ保険金請求の迷宮
事故の知らせは、冬の雨の朝だった。
息子正継が車の事故で亡くなった――その一報だけで、胸の奥が真っ白になった。
正継には三人の子どもがいる。
だが、あの子たちは複雑な事情を抱えていた。
長い間、父である正継と距離を置き、結局、みな相続放棄を選んだと聞かされた。
「お母さまが、相続人になります。」
司法書士が淡々と言う声が、遠くで響いているようだった。
息子が残した唯一の財産。それは、彼自身が加入していた自動車保険の人身傷害の死亡保険金3000万円。
「息子の死と向き合うためにも、きちんと請求したいんです。」
母は震える手で保険金の請求書に署名した。
そのお金が欲しいのではない。息子が最後に残した権利を、誰かがきちんと受け取らなければいけない。そう思った。
ところが、保険会社の担当者から返ってきたのは冷たい文言だった。
「保険金の請求権者は、お孫さまですので……」
私は耳を疑った。孫たちは相続放棄をしている。法律上、もう息子の権利を受け継ぐことはできないはずだ。
「私は、息子の相続人なのですよ?なぜ、孫にしか請求できないと言うのですか?」
息子の死を受け入れ、孫たちの相続放棄を受け入れ、自分が相続人として立つことも受け入れた。
だが保険会社は、その事実を受け入れようとしない。
「……裁判で決着をつけるしかないのですね。」
そう呟いた声は、小さく震えていた。しかしその震えは、悲しみだけではなかった。
息子のために立つ――その決意でもあった。
※本記事の冒頭ストーリーは、実際の判例をもとにしたフィクションです。実在の人物・団体を直接描写するものではなく、当事者の心情に想像を交えて構成しています。
🧩 知らないと損をする「保険金請求権者」の落とし穴
交通事故で被保険者(保険をかけられている人)が死亡した場合、人身傷害保険は非常に重要な保険です。しかし、その「保険金請求権」が、いつ、誰に、どのような範囲で帰属するのかについて、長らく解釈の曖昧さが残っていました。
今回、最高裁判所は、この人身傷害保険金請求権の帰属と、保険金額の算定において近親者の精神的損害がどう影響するかについて、実務の明確な指針を示す判決を下しました。
⚖️ 事案の概要と争点
本件は、自動車保険の人身傷害条項に基づく保険金請求権をめぐる裁判です。
🔍 【事案の整理】
- 保険契約: 亡C(被保険者)は人身傷害保険付き自動車保険に加入。
- 事故発生: 亡Cが自損事故で死亡。
- 相続関係:
- 第一順位相続人である子3名(Dら)が全員相続放棄。
- 第二順位の相続人である母(A)が単独で相続人となった。
保険契約の定め
この自動車保険の特約では、保険金請求者について以下のように定められていました。
「被保険者。ただし、被保険者が死亡した場合はその法定相続人とする。」
争点の焦点
- 請求権の帰属(誰が受け取るか)
人身傷害保険の死亡保険金請求権は、亡Cの「相続財産」となるのか、それとも子(Dら)の「固有の財産」となるのか? - 保険金額の算定(金額はどうなるか)
近親者が存在することは、被保険者本人に支払われるべき保険金の額を減額させるのか?
💡 最高裁判所が示した二つの判断
最高裁は、この二つの重要な争点について、以下の通り判断を下しました。
1.保険金請求権は「被保険者本人の相続財産」である
【最高裁の判断】 人身傷害保険は、被保険者自身が被った損害を塡補(てんぽ)することを目的としています。 したがって、被保険者が事故で死亡した場合でも、その保険金請求権は、まず死亡した被保険者自身に発生し、それを法定相続人が相続するという構造になります。
📌 実務上の意味(本件の結論): 保険金請求権は、亡Cの相続財産です。 子(Dら)は相続放棄をしたため、この請求権を承継できません。 結果、民法上のルールにより単独相続人となった母(A)が、この保険金請求権を全額承継取得することになります。
2.遺族の存在は「被保険者の保険金」の額を減額させない
最高裁は、遺族(近親者)が独自の精神的損害を負っていても、死亡した被保険者本人の精神的損害が減額されることはないと明確に示しました。
【最高裁の判断】 人身傷害保険の「精神的損害額」は、被保険者自身が受けた損害と、その近親者が受けた損害を合計した「総額」として、あらかじめ単一の金額(例:3,000万円)で定めている。 そのため、近親者(父母、配偶者、子)が存在したとしても、被保険者本人の精神的損害が減少するわけではない。被保険者に支払われるべき保険金額を、この総額(本件精神的損害額)の全額を前提として算定すべきである。
📌 実務上の意味(相続放棄との関係): 本件では、相続人である母(A)が、被保険者本人(亡C)が持つ保険金請求権(総額)を全額相続しました。この総額は、子(Dら)や母(A)が被った精神的損害も全て含めた金額です。 母(A)は、この総額を請求できることになります。
🐯 弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点
「誰が請求するか」と「いくら払うか」の峻別
今回の最高裁の判断は、人身傷害保険の実務を根底から整理するものです。
最も重要な教訓は、以下の2つの問いを明確に分けて考える、という点です。
| 問い | 結論 | 根拠 |
| 誰が請求し受け取る権利を持つか? | 相続財産として、その時の法定相続人(本件では母A) | 請求権はまず被保険者本人に発生するから。相続放棄した近親者には権利はない。 |
| 保険金の額はいくらになるか? | 総額は減額されない | 近親者の損害を含めて「単一の総額」として約款で定められているから。 |
相続放棄と保険金
本件の最も複雑な点は、子が相続放棄をしたことです。
子が相続放棄をすると、民法上は初めから相続人ではなかったことになります。そのため、子たちは保険金請求権を承継できませんでした。しかし、保険金が「総額」として設定されているため、結果的に、繰り上がった相続人である母(A)が、子たちの精神的損害分も含んだ保険金の総額を受け取ることになりました。
契約者への提言
この判例を踏まえると、人身傷害保険は、「誰を救済の対象とするか」(近親者)と「誰に権利を渡すか」(法定相続人)が一致しない可能性があることを示しています。
- 遺言書の作成(重要): 保険金は相続財産になるため、遺言書を作成することで、事実婚の配偶者や、疎遠ではないが法定相続人ではない者など、特定の家族に確実に渡すための対策を講じることが、最も確実な予防法務となります。
保険は「万が一」の設計図です。最高裁の判断を理解し、あなたの家族構成と希望に沿った形で、その設計図を完成させておきましょう。
文書作成者
佐藤 嘉寅
弁護士法人みなとパートナーズ代表
プロフィール
平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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