📘 彼は“もう終わった”と言った──「不貞行為と破綻の認識」


✨ グラスの向こうに

バーカウンターの薄明かりのなかで、彼はグラスをゆっくり回していた。
「うちはね、もう何年も会話がないんだ。完全に家庭内別居。子どもももう成人したし、離婚の話も出てるくらいで──」

彼の声は、酔いよりも静かな諦めに滲んでいた。
私は、グラス越しにその横顔を見つめながら、思った。

そんなにも、孤独だったんだ。

彼が有能な上司であることは知っていた。でもこの夜、はじめて彼の「弱さ」を知った。
そして、私の心に、小さな綻びのような感情が芽を出した。

数日後──私は、軽く口にした。 「……今度、映画でも行きませんか?」

📄 事件の概要

令和7年4月14日、横浜地方裁判所川崎支部は、既婚者であることを知りながら不貞行為に及んだ女性に対し、原告(夫の妻)への損害賠償として220万円の支払いを命じました(令和5年(ワ)第453号)。

原告は「被告女性が男性Aを既婚者であると認識しながら不貞行為に及んだ」「原告と夫Aの婚姻関係の破綻の事実はない」「被告女性は婚姻関係が破綻したと信じたことについて過失がある」として慰謝料500万円および弁護士費用50万円、計550万円を請求。

これに対し、被告女性は「不貞行為は婚姻関係破綻後で、責任はない」「被告女性は、男性Aから原告夫婦が家庭内別居であることなど、家庭内の事情を聞かされていたなどとして、原告と男性Aの婚姻関係が破綻していると過失なく認識していた」と反論しました。

⚖ 裁判所の判断

🕊 不貞行為の開始時期

原告は、被告と夫Aの不貞行為が令和4年9月23日から始まったと主張。
一方、被告は同年12月25日からであると反論していました。

裁判所は、以下の証拠に基づき、原告の主張を認めました。

  • Aの手帳の記載と領収書: 令和4年9月23日のAの手帳には「D」と記載があり、飲食店の領収書も存在したこと。
  • Aと被告の電話での会話: 令和5年1月1日の電話でAが「映画行きたいというのも、自分から行こうじゃなくて、あなたに言わせて」「俺が既婚者だからね」「俺からは強く言えない」などと発言していたこと。
    さらに、Aが「俺と付き合ったの9月だろ」と述べたり、「しょっぱな俺と会ったD、あん時はやばかったよね。」と発言し、その際に性交渉に及んだことを推認させる内容があったこと。
  • Aの行動の変化: 令和4年10月下旬頃から、Aが自身の収入口座の通帳管理を原告から引き継ぎ、原告に生活費を渡さなくなったこと。また、通勤がつらいと述べ、アパートを借りたいと言ったり、ホテル(G)の会員になったと話すなど、週末に外泊するようになったこと。

これらの事実から、裁判所は、被告とAは令和4年9月23日には既に性交渉に及んでおり、不貞関係を継続していたと認定しました

💍 婚姻関係は破綻していたのか?

この点は判決の核心部分です。

婚姻関係が破綻した後に、不貞行為に及んでも、不法行為責任を負うことはありません。
この点は、下記のとおり、最高裁で明確にされています。

夫婦の一方と第三者が不貞関係を持った場合において、これが第三者の他方配偶者に対する不法行為となるのは、それが、当該夫婦の婚姻共同生活の平和の維持という権利又は法的保護に値する利益を侵害する行為ということができるからであるから、当該夫婦間の婚姻関係がその当時既に破綻していたときには、特段の事情のない限り、その第三者は、他方配偶者に対して不法行為責任を負わないものと解するのが相当である(最高裁平成8年3月26日第三小法廷判決・民集50巻4号993頁参照)

被告は、不貞行為以前に原告とAの婚姻関係がすでに破綻していたため、不法行為は成立しないと主張しました。
しかし、裁判所は、この主張も明確に否定しました。

裁判所が認定した夫婦関係の実態は以下の通りです。

  • 長年の共同生活: 原告とAは、婚姻後も夫婦共有の自宅で子らと共に生活を続けていたこと。
  • 家族としての交流: 令和4年においても、子らと共にアウトレットモールや墓参りに行き、外食をしていたこと。
  • 夫婦としての日常: 同年9月までAの運転する車で日常の買い物を夫婦で行っていたこと。同年3月にはFのショールームに共に行き、システムキッチン及び浴室のリフォームを行うことを決定し、実行したこと。
  • 家庭内の役割分担: Aは帰宅時間を原告に連絡し、令和5年1月14日頃までは基本的に原告が用意した夕食を原告及び二男と共にとっていたこと。原告はAの収入が入金される口座の通帳を管理し、家計をやりくりしていたこと。
  • 同居の継続: 令和5年3月にAが自宅を出るまで、夫婦は同居を継続していたこと。

これらの事実から、裁判所は、不貞行為が始まった令和4年9月23日以前に、原告とAの婚姻関係が破綻していたとは認められないと判断しました。
被告が主張する「家庭内別居」や「精神的虐待」についても、それを裏付ける的確な証拠はないとして退けられています。

❓ 被告は「破綻している」と信じていた?

実務上、非常に重要となるのがこの点です。被告が「破綻していたと過失なく信じていたかどうか」。
こういった不貞相手の主張は、私自身、男性・女性を問わず、依頼者・相手方を問わず、何度も聞いたことがあります。

本件でも、被告は、「男性から家庭内別居だと聞いていた」「職場の先輩もそう言っていた」と主張しました。

しかし、裁判所はこの主張も認めませんでした。

  • 既婚の認識: 被告は、Aが既婚者であり、妻と同居していることを認識していた。
  • 伝聞情報の限界: 裁判所は、たとえAや、Aから話を聞いた職場の先輩から「A夫妻が家庭内別居である」と聞いたとしても、不貞相手であるAの上記のような話や、Aからの伝聞にすぎない話をもって、被告が原告とAの婚姻関係が破綻していると過失なく認識していたと認めることはできない、と明確に判断しました。
    他に合理的な根拠が示されなかったことも指摘されています。

💰 慰謝料の算定と支払命令

最終的に、裁判所は次の点を考慮して220万円の損害賠償を命じました。
裁判所は、以下の点を総合的に考慮し、原告が受けた精神的苦痛は非常に大きいと判断しました。

  • 婚姻期間の長さ: 原告とAの婚姻期間が、不貞行為発覚時で約25年、判決時で27年以上に及ぶこと。
  • 不貞行為の継続性: 被告とAが令和4年9月23日以降、現在まで2年4か月以上にわたり不貞関係を継続し、本件別居以降も2年近くにわたり同居していること。
  • 被告の反省の態度: 被告がAの既婚を知りながら不貞行為に及んだにもかかわらず、特段反省する様子がなく、不貞行為の開始時期についても虚偽の主張をしていたこと。
  • 未成熟子の存在: 本件別居時、原告とAの子らが未成熟子(大学院生と高校生)であったこと(現在も二男は高校3年生)。

慰謝料:200万円+弁護士費用:20万円。
また、慰謝料200万円に対し、令和5年3月24日から支払い済みまで年3%の遅延損害金も認容されました。

📌 弁護士としての視点

今回の横浜地裁川崎支部の判決は、不貞行為をめぐる実務において、

  • 婚姻関係の実態(破綻の有無)
  • 被告の主観的認識と「過失の有無」
  • 被害者の精神的苦痛の程度

などを丁寧に事実認定し、慰謝料額を導き出した好例といえます。

家庭内の微妙なバランスが崩れたとき、「破綻」と呼べるかどうか。 そしてその“認識”がどれだけ正当だったか。
この判例は、「不貞行為の相手方が『夫婦関係は冷めている』『もうすぐ別れる』などと主張しても、それを鵜呑みにして安易に肉体関係を持てば、不貞行為の責任を免れない」という、不貞行為の責任を問う裁判で非常に重要な判例の立場を再確認したものです。
既婚者との交際においては、相手の言葉だけでなく、客観的な状況を慎重に判断する必要があることを示しています。

その判断の一つひとつが、人生の帰趨を分ける。 そんな緊張感のある現実を、改めて突きつける判決でした。

文書作成者

佐藤 嘉寅

弁護士法人みなとパートナーズ代表

プロフィール

平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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