令和7年9月25日大阪地方裁判所/令和5年(ワ)919号

🌙 「鍵をかけなかった夜──施設長として、私は何を怠ったのか」

夜勤のシフト表を見つめながら、私はため息をついた。また一人勤務だ。
人手が足りないのは、今に始まったことではない。
「今日も何事もなければいいが……」
それが、口癖になっていた。

問題の入居者がいることは、分かっていた。
職員に暴言を吐いた。椅子を蹴った。別の入居者に手を上げた。

記録には残っている。会議でも話題になった。退居の手続きも、確かに進めていた。
――もう少しの辛抱だ。数日で出ていく。
――大事になる前に片が付く。

そうやって、私たちは判断を先送りしていた。
事務室の扉に電子錠があることも、私は知っていた。設置したのは、この施設だ。
夜勤に入る職員は高齢だった。経験豊富で、穏やかで、信頼していた。
だから、どこかで「大丈夫だろう」と思っていた。

電話が鳴ったのは、深夜だった。
「……事務室で、職員が……」
言葉の続きを、私は最後まで聞くことができなかった。
頭の中で、点と点が一気につながっていく。

鍵。一人夜勤。事前の暴力。共有されなかった情報。

「想定外」という言葉が浮かび、すぐに消えた。
想定していた。ただ、向き合わなかっただけだ。

失われた命の前で、「もうすぐ退居予定だった」「まさか殺害までは」
そんな言葉は、何の意味も持たなかった。

※本記事の冒頭ストーリーは、実際の判例をもとにしたフィクションです。
実在の人物・団体を直接描写するものではなく、当事者の心情に想像を交えて構成しています。

⚖️ 「『想定外』は通用しない――裁判所が線を引いた安全配慮義務

今回のテーマは、介護現場における「労働者の安全配慮義務」です。 入居者(利用者)による加害行為について、施設側はどこまで責任を負うべきか。大阪地裁の判決(令和7年9月25日)  をもとに解説します。

🏛️ 事件の概要

住宅型有料老人ホームで、夜勤中の女性職員(Cさん・当時68歳)が、事務室に侵入してきた入居者(G・当時72歳)に金槌で殴打され、殺害されました 。 Gは犯行直後に自殺しました 。

遺族は、施設側に対し「防犯対策が不十分だった」として損害賠償を求めました。

💬 危険な予兆と、施設の対応

裁判で重要視されたのは、加害者Gの「前兆行動」です。

  • 事件の約2週間前、職員に対し椅子を蹴り当てるトラブルを起こしていた 。
  • 事件の3日前、別の入居者に殴る蹴るの暴行を加え、怪我をさせていた 。
  • 施設側はGの危険性を認識し、退居手続きを進めていた最中だった 。

しかし、事件当夜、被害者Cさんは「ワンオペ夜勤」をしており、事務室の扉は「開放」**されたままでした 。

⚖️ 裁判所の判断(大阪地裁 令和7925日判決)

裁判所は、施設側の「安全配慮義務違反」を認め、合計約3945万円の支払いを命じました 。

1.危険は「予見できた」 
施設側は「殺害までは予見できなかった」と主張しましたが、裁判所はこれを退けました。 Gが直前に暴行事件を起こしており、感情のコントロールが効かない状態にあったことから、「職員に危害を加える危険性は十分に予見できた」と判断しました 。

2.やるべき対策を怠った 
裁判所は、施設がとるべきだった具体的な対策として以下を挙げました 。

  • 情報の共有:職員Cさんに対し、Gの直近の危険性を具体的に伝え、接触を避けるよう指導すること。
  • 物理的防御:事務室の扉を施錠すること。実は「電子錠」が設置されていましたが、使い方が周知されておらず、使われていませんでした 。
  • 体制強化:Gが退居するまでの間だけでも、夜勤を2名体制にするなどの措置をとること。

3.結論 もし、Cさんに危険性が伝えられ、扉に鍵がかかっていれば、Gは侵入を断念し、最悪の結果は回避できた可能性が高いとして、施設側の責任を認めました 。

🐯弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点

「ハードウェア(設備)」があっても、「ソフトウェア(運用)」がなければ意味がない。
この判決は、その残酷な現実を突きつけています。

この施設には、事務室に「電子錠」がありました 。 しかし、会社は職員にその使い方を教えておらず、結果として扉は開けっ放しでした 。 
裁判所が「設置の瑕疵(設備の欠陥)」ではなく、「安全配慮義務違反(運用のミス)」で責任を問うたのは、まさにこの点です 。

介護現場では、「入居者の利便性」や「開放的な雰囲気」が重視されがちです。
しかし、「暴力の予兆」がある時、その優先順位は即座に切り替わらなければなりません。 
「数日後には退居する予定だった」という油断が、命取りになりました。
退居が決まった入居者が、最後に感情を爆発させるリスクは、現場の管理者なら想像し得ることです。

従業員の命を守れない組織に、利用者の命を守る資格はありません。 
「鍵をかける」「情報を共有する」「一人にさせない」。 当たり前の対策を怠った代償は、あまりにも大きなものでした。

文書作成者

佐藤 嘉寅

弁護士法人みなとパートナーズ代表

プロフィール

平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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