
📱既読にならない通知音
スマートフォンの画面を、彼女は静かに伏せた。テーブルの上に置かれたままの端末は、もう何分も沈黙している。
——平成30年4月。
それまでも、彼女は何度もメッセージを送ってきた。
「学費の件、相談できますか」「今月の支払いが厳しくて……」
けれど、それらはどこか遠慮がちで、お願いの域を出ない言葉だった。
その日、彼女は文章を打ち直した。何度も消して、何度も書き直して、最後に、こう送った。
「子どもたちと生活していくために、毎月の生活費の支払いをお願いします。」
送信。
画面に表示されたのは、既読のつかない一行。
返事はなかった。それでも、彼女は翌月も、次の月も、同じ文面を送り続けた。
生活費を求めることは、感情をぶつけることではなかった。
ただ、生きていくための意思表示だった。
そして7年後、裁判所はこう判断する。
このLINEが届いた時点から、彼女の請求は、法的な意味を持ち始めたのだと。
【ご注意】本記事は、依頼者様からの公開承諾を得た上で、プライバシー保護のため、当事者や特定情報(日付・場所の一部)を匿名化して記載しています。
🌱はじめに:あきらめないでください。過去の婚姻費用請求
婚姻費用の未払いに、長年お一人で悩み、苦しんでこられたのではないでしょうか。特に、ご自身に離婚の原因がある(有責配偶者である)ことや、請求したい期間が何年にもわたることを理由に、「今さら過去の分まで請求するのは無理だろう」と、あきらめてしまう方が非常に多くいらっしゃいます。しかし、その一歩を踏み出すことで、未来は大きく変わるかもしれません。
本稿でご紹介するのは、まさにそのような困難な状況を乗り越えた、画期的な解決事例です。この事案の特筆すべき点は、以下の3つに集約されます。
- 不貞行為をした側(有責配偶者)からの請求であったこと。
- 日常的な連絡手段であるLINEでの請求が、正式な意思表示として認められたこと。
- その結果、調停申立時から約6年も遡り、私立大学の学費を含む過去の婚姻費用として、約480万円の支払いが命じられたこと。(別居開始からは7年以上が経過していました)
この事例は、同様の状況で請求をためらっている方々にとって、希望の光となる重要な示唆に満ちています。もしあなたが今、過去の婚姻費用のことで悩んでいるのなら、ぜひ最後までお読みください。
🧩 ご相談の背景:長年の別居と無視され続けた子供たちのための費用請求
今回の依頼者(妻)は、長年にわたる別居生活の中で、経済的に非常に困窮しながらも、女手一つでお子様たちを支え続けてこられました。その背景には、高所得者である相手方(夫)からの十分な経済的支援がほとんどないという深刻な問題に加え、相手方の支配的な態度がありました。
別居に至る経緯と経済格差
依頼者と相手方は平成9年にご結婚され、3人のお子様に恵まれました。しかし、平成27年5月頃、依頼者の不貞行為が原因で夫婦関係は破綻し、別居を開始。
依頼者は、当時高校生だった長女と、その後合流した二女と共に、ご実家での生活を余儀なくされました。
相手方は年収1100万円を超える高所得者であった一方、依頼者の収入は年200万円程度と、両者には著しい経済格差がありました。このような状況で、育ち盛りのお子様たちを抱えながらの生活は、依頼者にとって極めて厳しいものでした。
無視され続けたLINEでの請求と支配的な誓約書
別居直後の平成27年6月から、依頼者は子供たちの学費の支払いを、LINEを通じて相手方に繰り返しお願いしていました。しかし、相手方がその切実な求めに応じることはほとんどなく、メッセージは無視され続けました。
さらに相手方は、依頼者に対し、その立場を利用して極めて支配的な内容の「誓約書」への署名を求めてきました。
その内容は、今後の不貞を疑われる行動があれば慰謝料200万円を支払い、親権や財産分与の権利を全て放棄することに加え、パートの時間や収入の使用方法を厳しく制限し、携帯電話のチェックに応じることなど、およそ対等な夫婦関係とはかけ離れた「家事奴隷的」とも言えるものでした。
依頼者は、ご自身のパート収入とご両親からの援助を頼りに、長年にわたってお子様たちの学費や生活費を一人で工面し続けてこられました。そのご苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょう。
相手方からの離婚請求を受けて、依頼者は、ようやく弁護士に相談することし、当事務所にご相談に来られたのです。
そして、その際に、一部の子供の学費以外、婚姻費用の支払がされていないことが分かり、過去に支払いをしてもらうべき婚姻費用を請求することになりました。
⚖️ 本件における4つの重要な法的争点
本件は、単に未払いの婚姻費用を請求するという単純なものではなく、解決のためには乗り越えなければならない、法的に困難な4つの大きな壁が存在しました。これらの争点一つひとつを丁寧に立証し、裁判所の理解を得られたことが、今回の画期的な解決へと繋がりました。
🔑争点①:過去の婚姻費用は、いつから請求できるのか?
【原則】調停を申し立てた時から
実務上、過去の婚姻費用は「調停や審判を申し立てた時」からしか認められないのが一般的です。そのため、何年も前の分まで遡って請求することは非常に難しいとされています。
【本件での判断】LINEで請求の意思が伝わった時
本件で私たちが調停を申し立てたのは令和6年4月でした。
しかし私たちは、別居を開始した平成27年から支払義務が発生していると主張しました。
裁判所は、依頼者が送り続けてきたLINEでの請求のやり取りを重視し、「遅くとも平成30年4月には、申立人が監護する長女及び二女の学費等や生活費の分担を求める趣旨が相手方にも伝わっていた」と認定しました。
この認定により、調停申立時から約6年も遡って支払義務の開始が認められました。これは、日常的なコミュニケーションツールが、法的に重要な「請求の意思表示」として機能することを証明した、非常に意義深い判断でした。
📱争点②:相手が「見ていない」と主張するLINEでの請求は有効か?
【相手方の主張】精神的苦痛でLINEは見ていない
相手方は、「申立人からのLINEは精神的苦痛から内容を見ずに未読スルーにしていた」と主張しました。つまり、請求の意思表示は自分には届いていない、という反論です。
【本件での判断】見ていなくても「到達」している
この主張に対し、裁判所は相手方の主観的な事情(メッセージを見ていなかったという主張)があったとしても、長年にわたる請求の経緯を踏まえれば、請求の趣旨は相手方に伝わっていたと判断しました。
これは、内容証明郵便が相手方のポストに届けば、本人が開封しなくても法的に「到達」したと見なされるのと同じ論理です。
デジタルなコミュニケーション手段であるLINEが、内容証明郵便と同様に、法的な意思表示の手段として有効であることを示した点で、この判断は極めて画期的と言えます。
👶争点③:不貞行為をした側(有責配偶者)からの請求は認められるか?
【原則】有責配偶者自身の生活費は請求できない
法律上、不貞行為など婚姻関係を破綻させた原因を作った側(有責配偶者)からの婚姻費用請求は、信義誠実の原則から大きく制限されます。具体的には、自分自身の生活費を相手に求めることは、原則として認められません。
【本件での戦略】子供の養育費に相当する部分に限定
私たちはこの原則を踏まえ、戦略的に請求内容を構成しました。
依頼者ご自身の生活費は一切含めず、あくまで「子供たちの養育費に相当する部分」に限定して請求を行ったのです。
裁判所はこの主張を全面的に認め、「子の生活費に関する部分(養育費に相当する分)」の婚姻費用の請求を認めると判断しました。
これは、たとえ離婚原因が自分にあったとしても、子供を育てるための費用を請求する権利まで失われるわけではないことを明確に示した、重要な前例となります。
🎓争点④:私立大学・専門学校の学費は加算されるか?
【原則】標準算定表は公立学校の学費が基準
一般的な婚姻費用や養育費の算定表は、公立学校の学費を基準に作られています。そのため、私立学校の高額な学費は、別途「特別費用」として加算を求める必要がありますが、認められるかどうかはケースバイケースです。
【本件での判断】収入に応じて負担割合を算出し加算
本件では、長女の私立大学の学費(年間約114万円)と二女の専門学校の学費(年間約99万円)という高額な「超過学費」が争点となりました。 裁判所は、両親の収入状況に応じて負担割合を算出し(相手方:約83-85%、申立人:約15-17%)、相手方が負担すべき学費分を婚姻費用に加算する判断を下しました。
これにより、お子様たちの進学に伴う教育費について、極めて公平な分担が実現されたのです。
🏁 裁判所の画期的な判断と最終的な結末
これら4つの重要な法的争点を乗り越えた結果、裁判所は依頼者の実情に深く寄り添った、画期的な判断を下しました。
さいたま家庭裁判所飯能出張所は、令和7年9月1日付の審判で、以下の通り主文を言い渡しました。
相手方は、申立人に対し、婚姻費用分担金として480万6464円を支払え。
この金額は、裁判所が支払義務の開始時期と認定した平成30年4月から、お子様が専門学校を卒業した令和4年3月までの未払い婚姻費用(標準額に私学費用を加算したもの)の総額から、相手方が既に支払っていた一部の学費等を差し引いて算出されたものです。
この審判は、「LINEでの請求の有効性」「有責配偶者からの子の費用の請求」「私学費用の加算」という複数の困難な論点を克服した、実務上、非常に価値のある判断でした。
相手方はこの判断を不服として即時抗告(不服申し立て)を行いましたが、東京高等裁判所はこれを棄却し、原審判が確定しました。
最終的に、相手方から未払い金全額が支払われ、長年にわたる依頼者のご苦労が報われる形で、本件は完全に解決いたしました。
🐯 弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点
この解決事例は、今まさに婚姻費用の問題で悩んでいるあなたに、いくつかの重要な教訓を教えてくれます。
もしご自身が同様の状況にあるなら、以下の3つのポイントを心に留めて、決してあきらめないでください。
- 証拠を残すことの重要性
LINEやメールなど、日常的なやり取りであっても、「費用を請求した」という明確な証拠として極めて重要になります。たとえ感情的な言葉が含まれていたとしても、請求の意思が読み取れれば、それは法的な意味を持つ強力な証拠となり得るのです。 - 「有責」を理由にあきらめない
たとえ離婚の原因がご自身にあったとしても、子供を育てるための費用を請求する権利は失われません。本件のように、請求の仕方を工夫し、子供のための費用であることを明確に主張することで、道は開けます。 - 専門家への相談
特に過去に遡っての婚姻費用請求は、法的に複雑な論点を多く含みます。相手方の主張にどう反論し、どのような証拠を提出すべきか、専門的な戦略が不可欠です。早期に弁護士に相談することで、本件のような画期的な解決に繋がる可能性が高まります。
本件は、日常的なデジタルコミュニケーション(LINE)、複雑な夫婦関係(不貞)、そして現代的な教育水準(私立大学への進学)といった要素が複雑に絡み合う現代の家族法務において、極めて重要な道標となる事例です。
この記事が、一人でも多くの悩める方々にとって、勇気を出して一歩前に踏み出すきっかけとなることを、心から願っています。
文書作成者
佐藤 嘉寅
弁護士法人みなとパートナーズ代表
プロフィール
平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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