令和7年6月4日和歌山地方裁判所民事部/令和7年(ワ)106号 遺贈放棄無効確認請求事件

🕊️ 亡き依頼者との約束を胸に

応接室の机に広げた書面を、私はしばらく見つめていた。
そこには、市が「本件不動産の遺贈を放棄する」と淡々と記した通知があった。

――なぜだ。
平成30年、依頼者の強い希望を受け、必死に交渉した。市は「取得を承諾する」と確かに答えたはずだ。その言葉を信じ、同年11月には公正証書遺言を整え、自ら遺言執行者となることを誓った。

依頼者は、生前ずっと不安を口にしていた。
「この不動産は負担ばかりだ。警備費や電気代が重くのしかかる。相続人にまで税の重荷を残したくはない。」
その切実な声に応えるために、市の承諾を取りつけたことは、弁護士としての矜持でもあった。

だが、令和6年11月、依頼者の死去に伴い執行を開始した矢先、市の態度は一変した。
「遺贈は放棄します。」

書面を握る手に汗がにじむ。
――承諾しておきながら、なぜ今になって拒むのか。依頼者は、その信頼を前提に遺言を残した。
それを反故にすることは、亡き人の意思を踏みにじるのではないか。

私はしばし沈黙し、拳を机に置いた。六法の条文は冷ややかに「放棄は自由」と告げる。
だが――それで終わらせてしまえば、依頼者の声は二度と届かない。

遺言執行者としての責務。
あの時、「必ず形にします」と誓った言葉。
依頼者の不安を受け止め、その意思を法の場で貫くことこそ、自分に残された最後の使命ではないのか。

「……戦おう。」
小さく吐き出した声は、決意に変わっていた。

市がどんな論を掲げても、信義則の旗を掲げ、遺贈放棄の無効を問う。
依頼者の眠りを妨げないために。
そして、遺言執行者としての矜持を守るために。

弁護士は書面を整え始めた。
その手は震えていたが、ペン先には確かな力が込められていた。

📌 本記事の冒頭ストーリーは、実際の判例を参考に再構成したフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。


📘 事案の概要

本件は、遺言者が、その所有する不動産を特定の地方公共団体(被告)に遺贈する旨の公正証書遺言を作成した事案です。遺言者は生前、被告に対し遺贈の意向を伝え、被告もこれを承諾する旨の書面を交付していました。

しかし、遺言者の死後、被告は突如として本件遺贈を放棄する旨の意思表示を行いました。これに対し、遺言執行者である原告は、被告による遺贈放棄は、遺言者の信頼を裏切り、新たな遺言を作成する機会を奪ったものであり、信義誠実の原則(信義則)に反するため無効であると主張し、裁判を提起しました。

遺言は、被相続人の生前の意思を尊重し、その財産を円滑に承継させるための重要な法的手段です。

しかし、遺言による遺贈が、受遺者によって拒否された場合、その放棄の意思表示は法的に有効なのでしょうか。今回は、遺贈の受諾を一度は表明しながら、遺言者死亡後にこれを放棄した事案に関する、和歌山地方裁判所の判決を解説します。


⚖️ 争点と裁判所の判断

本件の主要な争点は、「遺贈放棄の意思表示が、信義則に反し無効と解されるか」という点でした。

遺言執行者である原告は、「生前に受け入れると言っておきながら、死後に放棄するのは信義則違反だ」と主張し、①放棄無効の確認、②不動産の所有権移転登記を求めて裁判を起こしました。

🔹 主位的請求(放棄無効の確認)

裁判所は、「放棄の無効確認」という形では確認の利益がないとして却下しました。なぜなら、もし放棄が無効なら、遺言執行者は直接「登記請求」をすればよいのであり、わざわざ「放棄無効」を確認する必要はないとされたのです。

🔹 予備的請求(所有権移転登記)

こちらについても棄却されました。理由は次のとおりです。

  • 遺言は遺言者の生前には法的効力を持たず、将来への「期待」にすぎない。
  • 受遺者(財産を受け取る側)は、民法986条に基づき、遺言者の死後いつでも遺贈を放棄できる。
  • その放棄について「合理的な理由」が必要とされているわけではない。

したがって、生前に受け入れる意思を示していても、それを翻して放棄すること自体は民法が認めている制度であり、信義則違反にはならないと判断されました。


🐯 弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点

生前の「承諾」は約束ではない。遺贈放棄が示した、遺言という制度の限界

和歌山地裁が示した結論はシンプルです。
遺言は死後に効力を持つ単独行為で、受遺者はいつでも放棄できる。
生前に「受けます」と言っていたとしても、それだけで死後の放棄を封じることはできません。
信義則を持ち出しても、よほど例外的な欺罔や特段の事情がない限り、裁判所は受遺者の放棄の自由を優先します。

この現実は、遺言執行者やご家族に酷ですが、法の運用としては一貫しています。
だからこそ、亡き人の意思を確実に実現したいなら、善意や口頭の「了解」に頼らない設計が必要です。

ここが実務の勘所です。

1.死因贈与契約の活用

遺贈ではなく、死因贈与という「契約」で受け渡しを設計する。契約であれば、受贈者の一方的放棄で簡単に白紙化されません。負担や条件も条項化できます。

2.負担付の生前贈与・寄付契約

不動産の維持管理・活用といった具体的義務を伴わせたい場合は、負担付贈与や寄付契約で義務と期限、違反時の措置を明記する。相手が自治体・学校法人・公益法人等なら、受入れ要綱や必要な内部手続(承認・議決・決裁)を事前に確認し、合意書で「手続完了」を条件成就として書き込む。

3.条件・費用・引継ぎの数値化

固定資産税、維持費、原状回復や解体可能性など、後から放棄の動機になりやすい負担は事前に見積もり、資金手当て(付随寄付・管理基金の設定等)を含めたパッケージにして合意する。

4.書面とフローの二重固定

「受入れ同意書」だけで安心しない。締結順序、必要決裁、登記・引渡しの実務フロー、万一のキャンセル条項と違約・実費精算の扱いまで、書面に落としておく。

5.遺言は“バックアップ”として位置づける

最終意思の確認として遺言は有効ですが、「これだけで成立する」と期待しない。
中核は契約、遺言は補完と認識するのが安全です。

結局のところ、今回の判決が教えるのは「よい話は、法的に強い形にしておく」という当たり前の鉄則です。
生前の承諾は、思いをつなぐスタートに過ぎない。その思いを確実にゴールへ運ぶのは、合意と契約、そして実務の段取りです。
遺言の力と限界を直視し、最初の一歩から“確実に届く”設計にしておきましょう。

文書作成者

佐藤 嘉寅

弁護士法人みなとパートナーズ代表

プロフィール

平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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