令和6年10月23日東京地方裁判所民事第19部/令和5年(ワ)4890号 損害賠償請求事件

💰 報酬と引き換えの不安
「紹介料は後日振り込んでおくから。」
C社の担当者の言葉に、男は曖昧に頷いた。胸の奥がざわつく。
顧客からの相談を、自社に持ち帰らず、ライバル会社へ流したのだ。
理由はわかっている。前職からの付き合いのある顧客で、自分が直接面倒を見た方が話が早い。
だが――本当は、その裏で受け取る報酬に心が動いていた。
夜、自宅に戻っても眠れない。
ノートPCを開けば、C社から届いた入金予定のメールが目に飛び込んでくる。
――これは裏切りではないのか。
顧客は信じて相談を持ちかけたのに。会社は自分に責任を託しているのに。
心のどこかで「大丈夫だ」と言い訳を探す。
「この顧客は自分の知人ルートだ。会社の本来の取引じゃない」
「仕入れは別部署の仕事だから、自分の範囲外だ」
だが、その言葉の一つひとつが脆く崩れ、焦燥だけが残った。
報酬の数字は確かに口座に残る。だが、その重みは、責任と罪悪感に変わっていく。
やがて、会社からの呼び出しが届く。
心臓が強く跳ねた。
――自分の選んだ道が、どんな結末を招くのか。
もう、逃げ場はなかった。
📌 本記事の冒頭ストーリーは、実際の判例を参考に再構成したフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
📘 事件の概要
令和6(2024)年10月23日、東京地方裁判所は、元社員による顧客横流し行為に関する注目の判決を言い渡しました。
原告は都心の中古マンションを扱う不動産会社「株式会社トラスト」。
被告はそのコンサルティング事業部の部長職にあった元社員です。
被告は、顧客から物件売却の相談を受けながら、勤務先である原告を介さずに、ライバル会社(C社)を紹介。その後、C社はマンションを転売して利益を得、被告自身もC社から報酬を受け取っていました。
会社側は「顧客を横流ししたのは誠実義務違反だ」として、逸失利益730万円の損害賠償を請求しました。
🔍 裁判での争点
主な争点は次の4点でした。
- 被告に労働契約上の誠実義務違反(債務不履行)があるか
- 会社にどれだけの損害(逸失利益)が発生したか
- 免責の合意があったか
- 会社側の請求が「信義則違反」として許されないのではないか
🏢 会社側の主張
- 部長職である以上、顧客からの相談は会社に繋げる義務がある。
- C社が転売で得た利益730万円は、本来トラストが得られた利益。
- その利益を横取りしたのだから、全額を賠償すべき。
🙍♂️ 被告の主張
- この顧客は前職時代からの関係先で、原告の顧客とは言えない。
- 自分の職務範囲は「販売」であり、「仕入れ」は別部署が担当していた。
- 実際に会社へも売上を立てており、経営秩序を乱してはいない。
- さらに、会社代表者から「今回は不問にする」と言われたはずだ。
⚖️ 裁判所の判断
裁判所は以下のように判断しました。
- 部長職である被告には「顧客を自社取引につなげる誠実義務」があった。
- その義務を果たさず、C社と取引を成立させたのは債務不履行。
- ただし、会社の主張する損害額730万円全額が認められるわけではない。
損害額算定の理由
- 顧客はもともと被告の知人ルートであり、仲介業者Bに報酬を払う必要が生じていた可能性が高い(約320万円)。
- 物件が賃貸中であったため、リフォーム費や登記費用など追加コスト(約100万円)が発生していた可能性がある。
➡ よって、損害額は 730万円 − 320万円 − 100万円 = 310万円 と認定。
最終的に裁判所は、被告に 310万円と遅延損害金の支払いを命じ、残りの請求は棄却 しました。
🐯 弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点
― 「自分の顧客」という幻想が壊れるとき。背信の代償は310万円
この判決は、ひとつの会社の内部不正にとどまりません。
それは、「誠実さ」という言葉を、誰もが当たり前のように口にしながら、どこかで軽んじてきた私たちへの警告でもあります。
元部長という立場にありながら、会社を介さず顧客をライバル企業に紹介し、報酬を得た行為
それは単なる規律違反ではなく、信頼関係そのものの破壊でした。
会社が社員に求めるのは、労働時間や成果だけではありません。
そこには、「職務を通じて得た機会・情報・信用を会社のために使う」という、暗黙の信義が存在します。
「前職からの付き合いだから」「自分の顧客だから」という言い訳は、給与を受け取る限り通用しません。
この判決が示したのは、組織に属する者が「自分と会社の境界」を曖昧にしたとき、その行為が法的にも明確な責任を伴うということです。
⚖️ 背信には冷たく、損害には正確に――司法のバランス
興味深いのは、裁判所が下した損害額の算定です。
原告は、ライバル会社が得た利益730万円の全額賠償を求めましたが、裁判所は感情ではなく、実務の現実を見据えました。
「会社が自ら取引していたとしても、仲介料やリフォーム費用などのコストが発生していた」
そう判断し、実際に得られたであろう純利益を310万円と認定したのです。
つまり、司法は「誠実さ」を守ることにおいては厳しく、損害を計算することにおいては冷静なのです。
このバランスこそ、法が感情ではなく事実に基づく証明の世界であることを、私たちに思い出させてくれます。
💡 企業と働く人の双方に問われる「透明な誠実」
企業にとって、誠実義務違反は、金額以上に信用を失うリスクを伴います。
だからこそ、顧客対応・副業・取引のルールを明文化し、就業規則や誓約書として可視化することが不可欠です。
社員にとって、「顧客を大切にする」とは、会社の信用を背負って応対することを意味します。
誠実さとは「裏取引をしないこと」だけではなく、会社と顧客の双方に対し正直であることです。
「誠実義務」とは、法律用語でありながら、実は人としての基本です。
信頼の上に成り立つビジネスの世界では、その基本を失った瞬間に、取引も、関係も、すべてが崩れます。
法は冷静に、しかし確実に、その「裏切りの代償」を見逃さない。
この310万円という数字には、組織に属するすべての人への無言の警告が込められています。
文書作成者
佐藤 嘉寅
弁護士法人みなとパートナーズ代表
プロフィール
平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

お気軽にお問い合わせください。03-6206-9382電話受付時間 9:00-18:00
[土日・祝日除く ]
メールでの問合せは全日時対応しています


