令和7年7月4日最高裁判所第三小法廷/令和5年(受)1838号

📝『失われたはずの権利を、取り返すために』
夜、机に置いた判決文が、蛍光灯の光を受けて白く反射した。目を通すたび、胸の奥がじくりと痛む。
——請求棄却。
たった四文字なのに、自分の二年半が切り捨てられたような気がした。
事故の瞬間、腰を貫いた激痛。働けず、歩くことすらままならなかった日々。治療を支えてくれた家族の顔。
それらが一行の文字の前に消えていく。
「……既往症、か。」
医師に言われたことはあった。若いころから少し椎間板が傷んでいる、と。
だが、事故の衝撃でここまで悪化したのは明らかだと思っていた。
ところが裁判所は、“もともとの持病が損害の発生に三割ほど影響している”と判断した。
さらに追い打ちをかけるように、「あなたの損害はすでに保険で補填されている」と結論づけられた。
確かに、私は、自身の保険会社から人身傷害保険金666万円を受領した。
しかし、あの保険金は、痛み、治療、生活の支障……
本来、加害者が負うべき部分が、丸ごと消されたわけじゃない。
だけど、裁判所は聞いてくれなかった。
「これで終わりなのか……?」
悔しさが喉の奥につかえた。交通事故に遭ったのは自分なのに、なぜ“持病があった”というだけで、請求できる権利そのものが奪われるのか。
机の端で、スマートフォンが震えた。弁護士からの折り返しだった。
「納得できないお気持ち、よく分かります。ただ……最高裁は、今回のような“人身傷害保険と素因減額の関係”について、明確な基準をまだ示していません。」
静かな声だったが、どこか強い響きがあった。
「あなたのケースは、“どこまで保険会社が権利を持っていけるのか”を問う、大切な事件になります。争う価値はありますよ。」
胸の奥で、小さな火が灯るのを感じた。恐れもある。もう一度、裁判の場に立つのは簡単じゃない。
時間もかかるし、心も削られる。
それでも——。
「……やりましょう。最高裁で。」
そう口にした瞬間、自分が本当に取り返したいものが見えた気がした。
それは“お金”ではない。傷ついた体と人生を、誰かに“なかったこと”にされないための、最後の戦いだった。
※本記事の冒頭ストーリーは、実際の判例をもとにしたフィクションです。
実在の人物・団体を直接描写するものではなく、当事者の心情に想像を交えて構成しています。
🤕 保険金をもらっても、あとで「権利」が消える?
交通事故に遭い、自分の自動車保険(人身傷害保険)から治療費や慰謝料を受け取った。 「これでとりあえず安心だ。あとは加害者に残りの賠償を請求しよう」
そう思っていた被害者に、最高裁は衝撃的な「新ルール」を突きつけました。
もし被害者に「持病(既往症)」があり、裁判で「素因減額(持病による賠償額の減額)」が認定されると、受け取った保険金が「加害者への請求権」を根こそぎ奪っていく(代位していく)可能性があります。
本判決は、長年争われてきた「人身傷害保険 × 素因減額 × 代位」という複雑な三角関係に、初めて明確な計算式を与えました。
⚖️ 事案の概要と「数字」の整理
この判決を理解するには、実際の数字を見るのが一番早いです。
事故と損害(4つの数字)
被害者(原告)は、駐車場の陥没事故で腰椎椎間板ヘルニア等の傷害を負いました。
- 損害総額: 約941万円
- 素因減額(持病): 事故前の椎間板変性が影響したとして30%減額。
- 【重要】素因減額後の損害額:約658万円
- 過失相殺(不注意): 被害者の不注意で20%減額。
- 過失相殺後の損害額(加害者が払うべき額):約527万円
- 支払われた保険金:約666万円
- ※保険会社は持病による減額をせずに支払っていました。
争点:保険会社は「いくら分」の権利を持っていくか?
保険会社が保険金を払うと、被害者が加害者に対して持っている損害賠償請求権は、保険会社に移転(代位取得)します。 問題は、「代位取得の『上限額』はいくらになるのか?」です。
- 被害者の主張: 「保険金は持病部分(3割)も埋めてくれたものだ。だから、有効な損害部分(658万円〜527万円の枠)にはまだ空きがあり、私は加害者に請求できるはずだ。」
- 最高裁の結論: 「持病部分はそもそも保険の対象外。代位の上限は『素因減額後の損害額(658万円)』。」
💡 最高裁が初めて示した「新ルール(計算式)」
最高裁は、代位範囲について以下の計算式を示しました。
代位範囲の決定ルール
保険会社が代位取得する範囲(上限)は、「支払った保険金の額」と「素因減額後の損害額」のうち、 いずれか少ない額とする。
【本件での計算】
- A:支払った保険金 = 666万円
- B:素因減額後の損害額(過失相殺前) = 658万円
少ない方は B(658万円) です。 つまり、保険会社は「658万円」を限度として、被害者が加害者に持っている権利を取得します。
【結果】 被害者が加害者に請求できる権利は、過失相殺後の「約527万円」しかありません。 保険会社は「658万円分」の権利を持っているので、この527万円の請求権すべてを飲み込んで(代位して)しまいます。結果、被害者が加害者に請求できる権利はゼロになります。
🔍 なぜ?「過失相殺」とは結論が違う理由
これまでの最高裁判例(平成24年)では、「過失相殺(自分の不注意)」の場合は、保険金が「被害者の過失分を埋めるために使われる」(被害者有利)とされてきました。
なぜ今回は結論が違ったのでしょうか? 答えは、「保険約款の書きぶり(趣旨)」の違いにあります。
| 比較 | 約款の定め(趣旨) | 保険金の役割 |
| 過失相殺 (不注意) | 「過失があっても、その割合を考慮せず支払う」 | 被害者の過失による「マイナス分」も丸ごと面倒を見る。(だから穴埋めされる) |
| 素因減額 (持病) | 「既往症の影響がある場合は、その影響がなかったときに相当する金額を支払う」 (限定支払条項) | 持病による影響分は、最初から保険の対象外。穴埋めはされない。 |
最高裁は、「持病による損害」は保険契約上カバーされない領域であると、約款を根拠に明確に判断したのです。
🐯 弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点
「払い方」に騙されるな!実務家と被害者への警鐘
この判決は、実務に強烈なインパクトを与えます。 特に以下の「落とし穴」には要注意です。
1. 「実際に減額して払ったか」は無関係
本件では、保険会社は「持病による減額をせずに」満額を支払っていました。 しかし、最高裁は「実際に減額したかどうかは関係ない」と言い切りました。 保険会社が優しさ(あるいは調査不足)で満額払ってくれたとしても、裁判で「素因減額」が認められれば、法律上の権利移転はシビアに「素因減額ありき」で計算し直されるのです。
2. 「素因減額」は絶対に負けられない戦いになる
これまでは「仮に素因減額されても、人身傷害保険があればカバーされるだろう」という期待がありましたが、その退路は断たれました。 素因減額を認められることは、即ち「その分の賠償金が確定的に消滅する」ことを意味します。
示談交渉や訴訟では、既往症と事故との因果関係をこれまで以上に厳密に争う必要があります。「持病」という言葉が出たら、すぐに専門家へ相談すべきフェーズです。
文書作成者
佐藤 嘉寅
弁護士法人みなとパートナーズ代表
プロフィール
平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

お気軽にお問い合わせください。03-6206-9382電話受付時間 9:00-18:00
[土日・祝日除く ]
メールでの問合せは全日時対応しています

