令和7年8月8日函館地方裁判所民事部/令和6年(ワ)26号 地位確認等請求事件

🌙 『正義の叫びと、裏切りの代償』

彼女は、勇気を振り絞ってスマートフォンを握りしめた。施設の薄暗い廊下で、見てはいけないものを見た。老齢の入所者が、職員から不当な扱いを受けている光景。

見て見ぬふりをすれば、日々は穏やかに過ぎただろう。
しかし、その行為を「間違っている」と知っている。
匿名で通報ボタンを押した瞬間、心臓が強く脈打った。これで、入所者は守られる。そう信じた。

だが数週間後、オフィスに呼び出された。そこで彼女に突きつけられたのは、「勤務時の言動」を理由とする懲戒解雇通知だった。

会社は言った。「通報とは関係ない。職場の秩序を乱したからだ」と。

彼女の記憶には、虐待の事実と、それを告発した「正義の叫び」だけが残っている。
その代償が、職と生活の全てを奪われることだった。法廷の扉を開くのは、組織の倫理と、働く個人の尊厳を取り戻すためであった。

📌 本記事の冒頭ストーリーは、実際の判例を参考に再構成したフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

⚖️ 事件の概要と判決の結論

本件は、被告(特別養護老人ホームの運営者)の施設で勤務していた原告(職員)が、高齢者虐待防止法に基づく通報をした後に懲戒解雇され、その解雇の無効と地位確認、損害賠償を求めた事案です。

争点内容函館地裁の判断
報復解雇の有無懲戒解雇は、通報を理由とする報復措置(不利益取扱い)にあたるか。報復とは認めなかった
懲戒解雇の有効性勤務時の言動を理由とする懲戒解雇は、労働契約法上有効か。無効。懲戒解雇は重すぎて不相当である。

判決の核心:「報復ではないが、重すぎて無効」というロジック

この判決で最も重要な点は、裁判所が「懲戒解雇が公益通報に対する報復である」とは認定しなかったという点です。
通報と解雇の間に直接の因果関係(報復の意図)までは認定しませんでした。

しかし、裁判所は次に、懲戒解雇の「処分そのもの」の妥当性を厳しくチェックしました。

⭕ 懲戒解雇が無効となった理由

裁判所は、施設側が懲戒事由として挙げた原告の「勤務時の不適切行為」について、以下の通り評価しました。

  1. 行為の軽微性: 確かに一部の言動は「適切さを欠く」ものであり、注意指導の対象にはなり得る。
  2. 解雇の不相当性: しかし、それらの行為は懲戒解雇という最も重い処分に値するほどの重大性はないと認定。
  3. 懲戒権の濫用: 懲戒解雇は、社会通念上相当性を欠き、懲戒権の濫用として無効である(労働契約法15条)。

つまり、「通報への報復」という直接的な違法性ではなく、「軽微な行為に対する過度な処分」という、解雇権濫用の法理に基づいて解雇を無効としたのです。

🎯「軽すぎる行為」と「重すぎる処分」のギャップ

判決は、原告の不適切行為の背景として、施設側の体制の不備も指摘しています。
特に介護現場特有の薬剤管理の脆弱さや、職員への教育・指導体制の不足が、現場での不適切な言動を助長していた側面を考慮し、「職員一人の責任」として全責任を負わせる懲戒解雇は不当だと判断しました。

🐯 弁護士 佐藤嘉寅(とら先生)の視点

― 【経営者への警鐘】「通報」を理由にできなくても、「解雇権濫用」で断罪される

この函館地裁の判決は、介護・医療業界に限らず、すべての企業経営者と法務担当者が深く認識すべき「二重の法的リスク」を示しています。

🚨 リスク①:解雇権濫用の「甘え」は許されない

企業が解雇を正当化する際、安易に「服務規律違反」や「職場の秩序を乱した」という汎用的な懲戒事由を適用するケースがあります。
しかし、本件が示すように、裁判所は「その行為が、解雇という最強の処分に見合うか」を極めて厳格に判断します。

軽微な不適切行為や、指導で改善可能な問題に対し、懲戒解雇を選択することは、「経営側の感情論」と見なされ、解雇権の濫用として無効を宣告される可能性が極めて高いのです。

🏢 リスク②:不正の「温床」を放置した企業の責任

懲戒解雇の無効が確定した場合、企業は単に解雇が無効となるだけでなく、過去に遡っての賃金の支払い、そして不当解雇に対する慰謝料(損害賠償)を負うことになります。

本件で裁判所が不適切行為の背景にある施設側の管理体制の不備に言及したことは、企業にとって最も恐れるべきポイントです。

【経営者がいますぐ確認すべき実務上の落とし穴】

  1. 通報窓口の「機能不全」: 公益通報窓口が形骸化し、通報内容を「単なる告げ口」「組織への攻撃」と見なす風土がないか。通報者への報復(懲戒権濫用を含む)は組織の倫理観欠如として評価されます。
  2. 曖昧な懲戒基準: どのレベルの不適切行為が「懲戒解雇」に相当するのか、社内で明確かつ具体的に定義され、運用されているか。
  3. 不十分な教育体制: 介護施設であれば、特に高齢者虐待防止法に基づく倫理・実務教育が徹底されているか。教育不足が原因の軽微な問題で重い処分を科すのは、企業の管理責任放棄とみなされます。

正義を訴えた職員を「悪者」にし、その問題の根源(組織の管理体制)から目を背けたとき、司法は企業に対し、容赦なく「解雇権濫用」の鉄槌を下すのです。本判決は、すべての組織に対し、不正を許さないガバナンスの構築を強く求めています。

文書作成者

佐藤 嘉寅

弁護士法人みなとパートナーズ代表

プロフィール

平成16年10月 弁護士登録
平成25年1月 弁護士法人みなとパートナーズを開設
得意分野:企業間のトラブル、債権回収全般、離婚、相続、交通事故、刑事弁護、サクラサイト被害などの消費者問題にも精通

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